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鮎川俊介の「晴行雨読」

晴れたら小さい旅、雨が降ったら静かな読書。風景や本、人との出会いを記録します。

「真岡もめん」の看板

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 五行(ごぎょう)川に架かる橋を渡って真岡駅方面へ向かう途中、通り右手に石蔵(和田屋の石蔵)があり、その前に「真岡もめん」と記された看板がありました。

 絵は有名な切り絵作家、滝平(たきだいら)二郎さんの作品。

 着物を着た女性が糸車で糸(綿糸)をつむいでいます。

 真岡(もおか)がもめんで有名なことがよくわかる看板でした。

御料理屋kokyu.

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 結城城址近くの水辺公園から駅方面へと戻る途中、通り左手にいっぷう変わった木造家屋を見掛けたので立ち寄ってみました。

 通りから見ると、右の建物と左の建物が渡り廊下で結ばれており、渡り廊下の下を潜って建物の正面へ出ると、広い庭が広がっていました。

 庭から建物を見ると、左の建物が入口(玄関)となっており、渡り廊下で結ばれた右手の建物は高いコンクリートの土台の上に建てられていて、濡れ縁の上に趣きのあるガラス窓が横一列に並んでいます。

 中にも縁側(回り縁)があり、おそらく障子戸の奥は広い座敷になっているのでしょう。

 現在、「kokyu.」という名前の和風レストランとして使われているようで、メニューが貼られた立て看板や開店時間が記された標示がありました。

 もと造り酒屋さんの別邸(昭和初年に建造)であったものを、まちづくりプロジェクトの一環として、和風レストランに利用することになったようです。

 結城のまちの魅力を高めるための、古民家活用の一例であると思われました。

結城のまちづくり

 

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  結城市内の町角で、一枚の看板に目が留まりました。

 「歩いて暮らせる安全で心なごむ街」とあり、「電柱地中化実現後のイメージ」と記されたイメージ写真が大きく掲載されています。

 イメージ写真の通りには車が走っておらず、コンクリートの電柱や電線はなく、町並みがすっきりしています。

 建ち並ぶ見世蔵には暖簾がかかり、通りには散策している人たちや、通り脇のベンチに座って憩う人々がいます。

 車が走っていない時代、通りは人々の重要なコミュニケーションの場でもあったことを想起させる看板でした。

 「空地空店舗活用」「誘客交流事業」といった語句が、結城のまちの課題を示しています。

 まちを歩いていて、「NPO法人結城まちづくり研究会」の暖簾や看板もあちこちで見かけましたが、ここ結城でも、商工会議所やNPO法人等によってさまざまな「まち」の活性化の試みが行われていることを知りました。

結城紬を織る地機

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 「結城市観光物産センター」においてある地機(じばた)2基のうちの1基。

 これは結城紬を織る地機(いざり織機)で、織機の原点ともいわれるもの。

 というのも、下野国分寺跡南側にある甲塚古墳(6世紀後半に造られた帆立貝形前方後円墳)から出土した形象埴輪群のうち、機織形埴輪(2基)は日本で初めて出土したもので、そのうちの1基は以前から使用されていた原始機(旧式)であり、もう一つの、布を織る女性を表現した形象埴輪の織機は地機(新式)であって、それが現在結城紬を織るのに使用されている地機の原点であると考えられるからです。

 つまりこの地機は、古墳時代(6世紀後半)からほぼ同じ基本的構造を持つ織機ということになるのです。

 真綿の原料である繭玉から糸をつむぐことから始めて、結城紬はすべて手作業で作られているわけですが、それは古墳時代から綿々と継続されている伝統的な作り方であることを知ることができました。

結城市民情報センター

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 JR水戸線結城駅北口を出ると、右手に結城市民情報センターがあり、それは市民図書館であるとともに観光案内所や観光物産センターなども併設されている複合施設になっています。

 観光物産センターでは結城紬の地機(じばた)織りの実演も行われていました。

 本場結城紬は全行程が手作業で行われていて、主な製造工程だけでも24の工程がありますが、そのうち重要無形文化財の3つの条件であり、ユネスコ無形文化遺産に登録されている技術は、①糸つむぎ、②絣くくり、③地機織りの3つ。

 地機(じばた)は観光物産センターに2台あり、店の方の説明によると、古墳時代の埴輪に地機をかたどったものがあり、基本的な構造や形は古墳時代から変わっていないということでした。

 結城紬の製造工程は「煮繭」から始まっています。

 この繭は現在福島県伊達市保原町からそのほとんどを仕入れています。

 しかしかつては、鬼怒川沿いの村々においては養蚕が盛んに行われており、その大量の繭玉を利用したものであったでしょう。

結城市山王のバス停

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 享保8年(1723年)の「五十里水」による壊滅的な被害を受ける以前、蚕種の本場は結城地方であり、その蚕種=「結城種」は、信濃・上野・下野・常陸・武蔵・相模・陸奥などに販売市場を広げていました。

 蚕種を売り歩く人々を蚕種商人と言いますが、その蚕種商人が集中していたのは鬼怒川西岸の結城本郷で、その中でも山王村が最も多かったようです。

 彼らは山川幽谷を超えて遠国まで出向き、各地の祭礼や市で蚕種を商いました。

 しかし享保8年の「五十里水」によって、鬼怒川西岸の桑畑は土砂に流されて、桑の木株一本残さぬほどの惨状となりました。

 この「五十里水」以後、結城地方の蚕種商人は奥州伊達地方の阿武隈川流域に出向いて、蚕種生産の技術を現地の農民に伝えたり、蚕種を共同生産したりしました。

 現在、結城市における養蚕農家は2軒しかなく、結城紬の原料である繭玉のほとんどは、福島県伊達氏保原(ほばら)町から仕入れているとのことでした。

結城市山王の鬼怒川大橋と河川敷

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   結城市山王(さんのう)はかつて鬼怒川沿いに山王河岸があったところであり、またかつて蚕種生産農家が集中していたところでした。

 元禄時代に最も多くの蚕種生産農家があり、享保元年(1716年)の「山王村明細帳」によると、10人ほどの農民が年に2、3回くらい、武蔵や相模方面へ蚕種販売に出向いていました。

 結城地方は「結城紬」と「結城種」(蚕種)生産の本場であったのですが、享保8年(1723年)の「五十里水」(いかりみず・鬼怒川上流の五十里沼の決壊による氾濫)により、結城地方の桑畑は壊滅的打撃を受け、蚕種生産の中心は阿武隈川沿いの伊達・信夫両郡(信達地方・現在の福島県北部)に移ってしまうことになりました。

 山王近くの鬼怒川に架かる鬼怒川大橋のあたりには、広い河川敷が広がっていますが、かつては見渡す限りの桑畑であったものと思われました。