鮎川俊介の「晴行雨読」

晴れたら小さい旅、雨が降ったら静かな読書。風景や本、人との出会いを記録します。

広瀬川の永久橋より河岸場跡を望む

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 かつては川岸町通りから馬坂という急な坂道を下っていくと、広瀬川の河岸があり、喜兵衛河岸もしくは孫右衛門河岸と言われました。

 武(たけ)孫右衛門の名前は、航路安全を祈願して文政2年(1819年)に建てられた石灯籠に、願主の一人としてその名前が刻まれていました。

 広瀬川利根川の分流で、渋川で利根川から分かれて、伊勢崎の河岸を経て利根川に合流します。

 利根川を利用した灌漑用水として整備されましたが、水運にも利用され、米や諸産物が船で運ばれました。

 伊勢崎の河岸から下って行くと、まもなく利根川に出ますが、そこにある河岸が平塚河岸でした。

 伊勢崎の河岸は永久橋の南側(下流側)の左手にあったようであり、永久橋の中ほどから広瀬川下流を眺めてみました。

 もちろん、広瀬川に架かるこの永久橋はかつてはなかったはずです。

武孫平家住宅

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 伊勢崎河岸石灯籠の左奥にあった、歴史の年輪を感じさせる茅葺屋根の住宅は、船問屋であった武(たけ)孫平の屋敷でした。

 武孫平家の初代は武孫右衛門で、寛文3年(1663年)に船問屋を開業しています。

 それから明治10年代まで、二百数十年間の長きにわたって船問屋を営業してきたとのこと。

 ほんそば(西側)を流れる広瀬川の河岸の名前が「孫右衛門河岸」とも呼ばれたのは、その船問屋の武孫右衛門にちなむもの。

 かつて河岸に通じる急な坂があって、それを「馬坂」と言いました。  

 急な坂であったので、馬に荷物を曳かせて坂を上がったことからその名がついたというから、広瀬川の孫右衛門河岸には「旧河岸通り」から急な坂を下りていったことになります。

 茅葺屋根の船問屋の住宅が現存しているという点で、きわめて珍しく貴重であると思いました。

伊勢崎河岸(喜兵衛河岸・孫右衛門河岸)の石灯籠

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 「西町通り」に戻って、それを南下すると三光町交差点にぶつかります。

 そのぶつかった通りが「旧川岸町通り」で、三光町交差点で右折して通りを進むと、右手にあったのが大きな石灯籠と茅葺屋根の家。

 石灯籠の傍らには「伊勢崎河岸の石灯籠」と記された案内板がありました。

 それによると、この石灯籠は、江戸時代に現在の広瀬川の永久橋東詰あたりにあった、喜兵衛河岸または孫右衛門河岸と呼ばれる船着場にあった石灯籠で、文政2年(1819年)に建てられたもの。

 世話人は大嶋儀右衛門、村田利兵衛。願主は武孫右衛門、瀬川太兵衛。

 灯籠の竿の部分には「大杉大明神」「住吉大明神」と刻まれており、航路の安全を祈願したものであるとともに、夜間や悪天候の際の航路の標識としての役目も果たしていたとのこと。

 基礎部には、寄進した荷主や船主たちの名前が刻まれているとも。

 確かに竿の部分に「住吉大明神」「大杉大明神」と刻まれ、基礎の部分に、「御舩安全」と刻まれた両側に寄進した人々の名前がびっしりと刻まれていました。

 伊勢崎の西側を南北に流れている広瀬川は、かつては水運の盛んな川であり、「喜兵衛河岸」もしくは「孫右衛門河岸」と呼ばれる河岸場があったのです。

伊勢崎神社(旧飯福神社)の彫刻

  「相川考古館」のある「 西町通り」から、左方向に延びる通りがあって、「呑竜通り」と標示がありました。

 太田市内で「子育呑竜」という大きな看板を見た記憶があって、その通りに入っていくと、やがて左手に伊勢崎神社があり、右手に本光寺(浄土宗)というお寺がありました。

 「呑竜通り」は、この本光寺にちなむものでした。

 というのも、幕末に太田の「子育呑竜様」を迎えて毎日七日を縁日と定め、盛大に御開帳や稲荷講を行ってにぎわったのがこの本光寺であったからです。

 その本光寺から、通り(呑竜通り)を隔てて北側にあったのが伊勢崎神社。

 13世紀にこの地の鎮守神として建てられたという。

 代々の赤石城主の信仰が厚く、明治になって氏子持ちとなりました。

 旧称は飯福神社。大正15年(1926年)に稲荷社をはじめとして町内の数社を合祀し、伊勢崎神社と改称したという。

 本殿・幣殿・拝殿がつながっており、一番奥の本殿は嘉永元年(1848年)に建てられたもの。

 驚いたのは、いたるところに緻密で彫りの深い彫刻が施されていたこと。

 当時の氏子たちの豊かな経済力や心意気を感じさせるものでした。

 この伊勢崎神社も、伊勢崎空襲を免れた貴重な建築物の一つということになります。

 

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西町通りの相川考古館の建物

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 本町一丁目交差点の南西角にある、かつては醤油醸造販売を行っていたという「町田佳聲生家」を左手に見て南下する通りが「西町通り」。

 その「西町通り」を進むと、右手に立派な瓦屋根の門があり、その左横に「相川考古館の指定文化財」と記された案内板がありました。

 それによると、この「相川考古館」は昭和25年(1950年)の開館で、相川之賀(しが)氏が明治・大正年間に収集した考古資料が数多く収蔵されており、中でも「埴輪男子立像」「埴輪男子倚像(いぞう)」「埴輪武装男子立像」の三体の人物埴輪は国指定重要文化財になっているとのこと。

 これらはいずれも伊勢崎市内および周辺の古墳から出土したものであるようです。

 とくに「埴輪男子倚像」は「琴を弾く埴輪」として知られ、全国的に見ても珍しいものだということです。

 また相川家茶室は文久元年(1861年)に、隠居屋を兼ねて建てられたもので、江戸時代のものとしては県内最古の本格的な茶室であるとのこと。

 このあたりは三光町といって、空襲による火災を免れた地域。

 相川家も、またそこに収蔵されていた考古資料も、幸いに空襲の被害を受けなかったのです。

伊勢崎の「かかあ像」由来

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 「本町通り」の各所に見られる「KaKaa」のシンボルマーク(看板)は、「かかあ天下」の「かかあ」のことであることを、伊勢崎郵便局近く「本町通り」に面した場所に置かれている「かかあ像」の案内板から知りました。

 案内板には、次のように記されていました。

 「上州かかあ天下」とは、上州の働き者のかかあたちを羨んだ他の地方の呼び方で、『上州かかあ天下一』というのが正しい。 イキ・イキ・イセサキ かかあ町  この石像は『上州かかあ天下一』の伝統を正しく受け継ぐイセサキのかかあたちを称え、その慈愛をめでて建立された。」

伊勢崎の「本町通り」(前橋・館林線)

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 「軽トラ朝市」の準備が行われている「いせさき明治館」前の通りを南下すると「本町通り」(前橋・館林線)にぶつかります。

 この交差点の左手前に「からくり広場」があり、傍らに「伊勢崎散策マップ」があって、伊勢崎の町の概要を知ることができました。

 特に興味関心を惹いたのは、「本町通り」「西町通り」「川岸町通り」などの主要道路や小さな街路など、多くの今の道は江戸時代からの道そのままであるということと、「旧時報鐘楼」の赤煉瓦が黒く焼けたり表面が焼けただれたようになったりしているのは、終戦前夜の昭和20年(1945年)8月14日の空襲によるもので、この空襲により市街地の約4割が焼失しているということでした。

 「旧時報鐘楼」の煉瓦壁がところどころ黒ずんでいることは気になっていましたが、それは空襲による猛烈な火災によるものであったことを知りました。

 もとは「本町通り」にあったという「いせさき明治館」も、「武家門通り」の「武家門」も、空襲による火災を幸いに免れたものであったのです。

 ネットで調べてみると、伊勢崎がアメリカ軍によって空襲を受けたのは、正確には8月15日の0時8分から2時15分までの真夜中2時間余であり、ほぼ同じ時刻、埼玉県の熊谷と秋田県秋田市の土崎(港)が空襲を受けており、これらがアメリカ軍による最後の本格的な日本本土空襲であったようです。

 織物の町伊勢崎は、終戦直前(終戦日当日)におけるアメリカ軍の本土空襲目的地の一つであったことになります