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鮎川俊介の「晴行雨読」

晴れたら小さい旅、雨が降ったら静かな読書。風景や本、人との出会いを記録します。

水野越前守忠邦の墓

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 水野忠邦(1794~1851)の墓のある山川水野家墓地は、結城市の南端の結城市街からは車でないと行けないようなところにあり、車でも道に迷ってしまうような田園地帯の真っただ中にありました。

 ここは山川水野家の2代忠善が、山川水野家の菩提寺として建立し、父である初代忠元を葬った万松寺というお寺があったところですが、幕末に火災に遭ってその後再建されず、明治5年(1872年)に廃寺となりました。

 したがってお寺の建物は何もなく、その跡地に初代忠元から11代忠邦までのお墓があるばかりでした。

 小高い丘陵上にあり、まわりは田園風景が広がっています。

 もともと水野家は代々三河国に住み、知多半島の北部一帯に勢力を持っていましたが、刈谷城主水野忠政の娘於大(おだい)が岡崎城松平広忠に嫁ぎ、その於大が生んだ竹千代が後に徳川家康になった関係から、徳川家ときわめて深い関係にありました。

 山川水野家初代忠元の父は、水野忠政の子忠守の子であり、大坂夏の陣の功によって2代将軍秀忠から、結城本郷1万石、下総山川領1万石、下総鹿沼領1万石、計3万石と山川城を与えられて大名に取り立てられました。

 したがって忠元の子孫にとって、山川の地こそが水野家発祥の地でした。

 この系統を山川水野家と称し、元禄13年(1700年)に結城藩主となって結城城に入った水野勝長の系統を結城水野家と称しました

 かつて山川城のまわりには低湿地の沼(山川沼)が広がって天然の要害になっていたという。

 この万松寺跡から見下ろされる田園地帯も、かつては沼地であったと考えられ、かつての景観とは大きく変貌しているようでした。

 水野忠邦は、文化12年(1815年)と天保13年(1842年)に、菩提寺であるこの万松寺を訪れているとのことです。