鮎川俊介の「晴行雨読」

晴れたら小さい旅、雨が降ったら静かな読書。風景や本、人との出会いを記録します。

十二天橋より田川下流を望む

 

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 久保田河岸は、田川沿いの上(かみ)河岸、田川と鬼怒川の合流点の内出河岸、鬼怒川沿いの下(しも)河岸の、三つの河岸から成り立っていました。

 十二天橋は、田川と鬼怒川の合流点のやや上流に架かっている小さな橋。

 この付近に上河岸や内出河岸があったものと思われます。

 田川の上流には小森河岸や小塙(こばな)河岸があったから、この田川にもさまざまな物資を運ぶ船が往き来していたことになります。

 久保田河岸には7軒の河岸問屋があり、また結城・会津・白河・二本松・黒羽各藩の蔵が建っていました。

 鬼怒川や田川といった河川により、結城の久保田河岸は、奥州や下野地方と江戸とを結ぶ水運上においてきわめて重要な拠点の一つであったのです。

水野越前守忠邦の墓

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 水野忠邦(1794~1851)の墓のある山川水野家墓地は、結城市の南端の結城市街からは車でないと行けないようなところにあり、車でも道に迷ってしまうような田園地帯の真っただ中にありました。

 ここは山川水野家の2代忠善が、山川水野家の菩提寺として建立し、父である初代忠元を葬った万松寺というお寺があったところですが、幕末に火災に遭ってその後再建されず、明治5年(1872年)に廃寺となりました。

 したがってお寺の建物は何もなく、その跡地に初代忠元から11代忠邦までのお墓があるばかりでした。

 小高い丘陵上にあり、まわりは田園風景が広がっています。

 もともと水野家は代々三河国に住み、知多半島の北部一帯に勢力を持っていましたが、刈谷城主水野忠政の娘於大(おだい)が岡崎城松平広忠に嫁ぎ、その於大が生んだ竹千代が後に徳川家康になった関係から、徳川家ときわめて深い関係にありました。

 山川水野家初代忠元の父は、水野忠政の子忠守の子であり、大坂夏の陣の功によって2代将軍秀忠から、結城本郷1万石、下総山川領1万石、下総鹿沼領1万石、計3万石と山川城を与えられて大名に取り立てられました。

 したがって忠元の子孫にとって、山川の地こそが水野家発祥の地でした。

 この系統を山川水野家と称し、元禄13年(1700年)に結城藩主となって結城城に入った水野勝長の系統を結城水野家と称しました

 かつて山川城のまわりには低湿地の沼(山川沼)が広がって天然の要害になっていたという。

 この万松寺跡から見下ろされる田園地帯も、かつては沼地であったと考えられ、かつての景観とは大きく変貌しているようでした。

 水野忠邦は、文化12年(1815年)と天保13年(1842年)に、菩提寺であるこの万松寺を訪れているとのことです。

絹川地区の久保田河岸跡(栄橋より上流左手)

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 田川が鬼怒川に合流する地点に、かつて鬼怒川筋最大の賑わいを見せたという久保田河岸がありました。

 元禄16年(1703年)には60艘の高瀬船を所有していたとの記録があります。

 会津藩もここに勤番所を設けて藩士を常駐させ、御手船5艘を備えていたとのこと。

 小鵜飼船から高瀬船への荷物積み替え場所として、江戸時代から昭和に入るまで大変な繁盛を見せた河岸であるということですが、鬼怒川に架かる栄橋から上流を見渡した限りでは、広い河川敷が広がっているばかりで、その痕跡はどこにも見つけることはできませんでした。

 結城のまちからは、陸路でおよそ一里の距離にあります。

絹川地区小森の大桑神社

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 鬼怒川のかつての河岸の一つであった久保田河岸跡へと向かう途中、「小森」の地名があり、道路左手に「大桑神社」がありました。

 案内板によると、本殿は享保7年(1722年)に建てられたもので、結城市指定有形文化財〈建造物〉になっています。  

 由来については、古代東国に養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部(いんべ)が、養蚕・農業の神である稚産霊尊(わかむすびのみこと)を祭神として、北にあった大水河原に創建、このあたり一帯を大桑郷と名付けたことに始まるとのこと。

 その後、洪水により流失したため、文明11年(1479年)に現在の地に移ったと伝えられているという。

 「小森」の地名も、養蚕・織物が盛んであったことから「蚕守」(こもり)と称されるようになったという説も紹介されていました。

 このあたりの鬼怒川の西岸一帯は、古来から養蚕が盛んであり、桑畑が広がっていた地域であり、そして生糸生産と絹織物業が盛んな地域であったのです。

結城城址を裏側(北側)より望む

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 結城用水に沿う水辺公園の駐車場に車を停め、本町を経由して結城城跡(城跡歴史公園)を訪れました。

 案内板によると、この結城城は治承年間(1177~1180)に結城朝光(結城氏初代)が築いたとされるが確証はなく、それ以後の南北朝動乱期に築城されたと見るべきであるとのこと。

 天正19年(1591年)、17代晴朝が徳川家康の二男秀康を養子にもらい受け(18代秀康)、慶長6年(1601年)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えたという

 結城氏の越前福井転封後、結城城はいったん廃城となりますが、元禄15年(1700年)水野氏の入部により再興され、明治になるまで水野家の居城であった、とありました。

 江戸時代、水野家には結城水野氏と山川水野家があって、両水野家は、結城家の元家臣の「結城十人衆」といわれる町方(商人)とともに、まちの発展に尽力したという。

 結城郊外の山川という地には、山川水野家の菩提寺である万松寺の跡があり、そこに山川水野家の11代までのお墓があって、その11代が「天保の改革」で有名な老中水野忠邦であること(つまり水野忠邦の墓が結城にあること)を、結城を訪れて初めて知りました。    

結城元祖結城七郎上野介朝光の墓

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 浄土真宗新居山称名寺に、結城家初代結城朝光のお墓がありました。

 案内板や石碑によると、朝光は藤原秀郷の直流小山政光の四男として生まれていますが、源頼朝の伊豆配流の際の子(つまり頼朝の実子)という説もあるようです。

 小山政光の妻である母の寒川尼は、頼朝の乳母をつとめたとありました。

 朝光は頼朝の信任厚く、関東八家の統領として頼朝の重臣の一人でした。

 この朝光は親鸞聖人の教えを信仰し、親鸞の高弟真仏常陸の豪族平国香の血を引く真壁城主平春時の出家後の名)を開基としてこの称名寺を建立。

 建長5年(1253年)2月に、87歳という当時としてはかなりの高齢で亡くなっています。

 寺には初代朝光から結城家4代までのお墓があるとのことでした。

健田須賀神社

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 健田(たけだ)神社はもともとは健田という地にあり、延喜式内社であったことから延喜式内社健田神社と呼ばれていました。

 須賀神社はかつては牛頭天王社といい、結城家初代朝光により創建されたと伝えられ、結城家第一の氏神であり、結城108郷の総社でした。

 須賀神社は、結城家が越前福井に移封された後も、結城の氏神産土神として信仰を集めました。

 明治3年(1870年)、その須賀神社の境内に12の神社をまとめ、健田の地にあった健田神社も統合して、健田須賀神社になりました。

 境内にあった「十二社縁起」によると、合祀された12の神社=「十二社」のうちに「結城七社」があって、その一つに小森村の「大桑大明神」というのがあるのに興味を持ちました。