鮎川俊介の「晴行雨読」

晴れたら小さい旅、雨が降ったら静かな読書。風景や本、人との出会いを記録します。

「世界遺産田島弥平旧宅」ポスター

 

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 通りに面したお店のショーウィンドウの内側に、「世界遺産田島弥平旧宅」という文字と切り絵風の絵が描かれたポスターが貼られていました。

 「富岡製糸場と絹産業遺産群」ともあり、この「田島弥平旧宅」が、富岡製糸場を中心とする「絹産業遺産群」の一つであることがわかります。

 この「田島弥平旧宅」は、伊勢崎市の境島町(利根川の南側)にあり、切妻造で桟瓦葺の二階建ての屋根に、養蚕用の気抜き(換気)の窓が付いた櫓(総櫓)が設けられている、きわめて豪壮な養蚕家屋です(幕末に建てられたもの)。

 3年前の春に境島町を訪れたことがありますが、「田島弥平旧宅」以外にも、その周辺に幕末や明治初期に建てられた2階建ての豪壮な養蚕農家(桟瓦葺で、「総櫓」のほかに「二つ櫓」や「三つ櫓」もありました)がいくつもあって、びっくりしたのを覚えています。

 まだ「世界遺産」になる前のことでした。

「いせさき明治館」と「軽トラ市」

 「武家門通り」の突き当りを左折して、信号のある交差点で右折すると、通りの両側に軽トラなど商用車が並び、荷物を下ろす人たちでにぎわっていました。

 「いせさき軽トラ市」と書かれた幟があって、軽トラ等で新鮮な野菜などを運んで来た人たちが、「朝市」を行う通りであることを知りました。

 その通り右手に、2階建て白亜(赤い屋根)の木造洋風の建物があり、目を引きました。「いせさき明治館」と呼ばれる、明治45年(1912年)に建てられた医院(「黒羽眼内科医院旧館」)で、木造洋風の医院建築としては群馬県下で最も古いものであるとのこと。

 もとは「本町通り」にあったものを、2002年(平成14年)に現在地に曳き屋移転したものだということです。

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いせさき街角文庫

 「旧時報鐘楼」のある広場に隣接する「赤石楽舎」(伊勢崎市地域交流センター)の大きなガラス窓のところに、「読書の街いせさき推進事業 いせさき街角文庫 伊勢崎市」と書かれた幟がありました。

 ガラス越しに中をのぞいてみると、本棚があって読書ができるスペースがありました。

 開館前で中には入りませんでしたが、施設の利用者が気軽に本を読める空間であるようです。

 聞くところによると、伊勢崎市では公共機関や商店などに「街角文庫」を設置し、市民がいつでもどこでも本に親しめる環境づくりを推進しているとのこと。

 「街角文庫」の空間が、地域の人々のコミュニケーション・交流の場ともなっているわけです。

 「読書の街いせさき」という語句に、新鮮な感動を覚えました。

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伊勢崎の「武家門通り」

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 「旧時報鐘楼」が通りの先にあるのを教えてくれたのは、通り沿いの延命寺というお寺でお墓参りをしていた70代ほどの女性。「今日は暑くなりそうですね」と話しかけると、いろいろなことを教えてくれました。

  • このあたりは曲輪(くるわ)町といって、かつてはお城を囲むお堀がまわりにあって、一部、それが残っているところがあること。
  • お城の近くということもあってか、このあたりにはお寺が多いこと。
  • このお寺は天台宗で、もと武家のお墓が多いこと。
  • この通りを進むと、突き当りの右手に「旧時報鐘楼」があって、それは大正時代に横浜の貿易商によって寄贈されたものであること。
  • 北小学校のあたりは伊勢原陣屋(お城)の跡地であること。
  • 徳江という製糸工場があって、そこではかつて多くの女工が働いていたこと。
  • 通っていた女学校には、「旦那衆」の娘が多くいたこと。またかつては「芸者衆」もたくさんいて、音曲にあふれにぎやかな町であったこと。しかし今は、いろんな意味で静かな町であること。
  • お墓詣りは夕方にするものではない、夕方にすると「ついてくる」と言われたこと。

 女学校を出てから伊勢崎を離れ、退職してから伊勢崎に戻ってきたということで、かつて製糸や織物でにぎやかだった頃の伊勢崎についてはよくご存知のようでしたが、伊勢崎を離れてから戻ってくるまでの間の伊勢崎のことについては「よく知らないんですよ」というお話でした。

 この延命寺のある通りは「武家門通り」という名前で、北隣にある同聚院にある武家門に由来しています。

 この武家門は、もとは伊勢崎藩初代藩主稲垣長茂の屋敷門であったらしく、寛文元年(1661年)に同聚院の本堂が建て替えられる以前の遺構で、伊勢崎市内で最も古い木造建築物ということです。

 伊勢崎駅横のスーパーからまっすぐ南下する通りが「武家門通り」で、通り右手に「武家門」があり、通り突き当たったところを右に折れると「旧時報鐘楼」があります。

旧時報鐘楼と赤石楽舎(伊勢崎市地域交流センター)

 

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  旧時報鐘楼を寄贈したのは伊勢崎出身の小林桂助(初代・1846~1917)。明治16年(1883年)に横浜で創業し、生糸や北海道特産のハッカなどの貿易で利益を上げたようです。

 この時報鐘楼が使われていたのは大正4年から昭和12年(1937年)までであったらしい。昭和12年に警察署望楼のサイレンに取って代わられたという。その間、伊勢崎の町にはこの洋風鐘楼のお寺(中台寺)の釣鐘が時報を告げていたことになります。織物工場で働く多くの女工たちも、こののどかな時報を耳にしていたことでしょう。

 この旧時報鐘楼のある広場に隣接してあったのが、伊勢崎市地域交流センターの「赤石楽舎」。最近建てられたようで、北小学校ともつながっている施設。市の交流センターとして、地域の人々の交流、催しの場として使われているようです。

 かつては伊勢崎藩陣屋があったところが、旧時報鐘楼のある広場、北小学校、北小学校の校舎や体育館と隣接する交流センター(赤石楽舎)として、地域の人々の交流の場として活用されているのが印象的でした。

伊勢崎市の旧時報鐘楼

f:id:ayushun:20160619100838j:plain群馬県伊勢崎市内曲輪(くるわ)町にある旧時報鐘楼。大正4年(1915年)に、横浜の貿易商で伊勢崎出身の小林桂助が寄贈したものと案内板に記されていました。時鐘は、江戸時代の町の人々に親しまれていた中台寺の釣鐘が使われていましたが、戦時中に金属回収により供出されたとのこと。塔屋部分も戦災で焼失しましたが、現在は復元されています。